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2013年9月25日水曜日

読書ノート:インド仏教思想史 三枝充悳著

レグルス文庫。大学生の時に一般教養の教科書として新刊で購入。仏教思想の変遷を概観。

先に紹介した「『痴呆老人』は何を見ているか」で仏教用語が出てきたことに刺激を受け、一部しか読んでいなかった本書を引っ張り出し、この度全部読んでみた。しかし固有名詞が頭に入らず、消化不良。宗派や経典も多様で全体像がつかみきれなかった。

そのため印象に残ったのは、インドもギリシアと同様、発達した豊かな社会の中で様々な議論が繰り返されることによって深遠な思想が生まれてきたというような、背景説明みたいなことぐらいだった。

他に目についたのは、全体的に抑えた筆致の中で際立って見える、一部の密教を評した激しい言葉だ。著者の信念を表しているのだろう。

「(宗教は)必ずいったんなんらかの形において否定を通過し、大いなる否定があって、そのうえに肯定を迎えるのでなければならぬ。それを経過することなしに、たんに現実をそのままに、本能の説くまま、欲望の奔るまま、行動している姿は、宗教として堕落したものといわなければならない。」P.236

しかし実際は、多くの宗教が世俗化という形で「堕落」の方向に向かい、それに反発して原点回帰の運動が発生する。本能や欲望を全肯定するほど極端な所まで堕落するとは限らないが、「世俗」⇔「原点」の往復運動を繰り返していくのが宗教の普通の姿ではないだろうか。布教のためには民衆に歩み寄っていく必要があるだろうし、世俗に通じるものがなければ多くの人を引き付けることは難しそうだ。

宗教上の真理を追究していくことは尊いが、世俗化が進んだ宗教に尊さがないわけではないと私は思う。東日本大震災以降、特に強く感じるのだが、宗教は神のためではなく人のために存在し、人がいるからこそ宗教に意義があるのではないだろうか。知り合いの神官は震災以降、毎日被災者のための祈りを欠かさないと言っていた。大変尊い姿勢で感銘を受けたが、こうした姿勢は多くの人の目に触れてこそ、知られてこそ意義が深くなると思う。

仏教の内容についてはあいかわらずよく分からないままなので、今度「つぎはぎ仏教入門」呉智英著(筑摩書房)、「知的唯仏論」宮崎哲弥、呉智英共著(サンガ社)などを読んで足がかりを作りたいと思っている。

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