Translate

2014年2月28日金曜日

読書ノート:竹取物語 岩波文庫

家族が新刊で買った物を拝借。言わずと知れた「物語の出で来はじめの祖」(By 紫式部)。9世紀末頃に成立したとされる。

スタジオジブリがかぐや姫のアニメ映画を公開したことに刺激を受け、初めて全編通して読んでみた。映画ではかぐや姫が犯したという罪は何か、ということに焦点を当てているそうだが、竹取物語の中では、月の王らしき人の言葉としてやや唐突に「かぐや姫は罪つくり給へりければ(p.53)」一時的に地上に降ろされたとあるのみで、罪の詳細が書いてあるわけではない。

京都書房の「新修国語総覧三訂版」によると、竹取物語はさまざまな民話や伝説を組み合わせてできたもののようで、仏教や神仙思想の影響を受けているそうだ。素人考えではあるが、この「罪」(「昔の契り(p.47)」とも記されている)は、求婚する貴公子にかぐや姫が要求したエキゾチックな宝物と同様、物語に味付けすべく導入された小道具程度のものではないかと感じられた。記述もあっさりしているし。昔は今みたいに細かいことまで突っ込んで書いたりしないので、あっさり書いてあるからといって重要度が低いともかぎらないだろうけど。

心理描写もごく表面的な記述しかなく、近現代の物語に慣れた目で見ると物足りないぐらいだ。話は飛ぶが、Julian Jaynes という心理学の教授が「神々の沈黙」(紀伊国屋書店)の中で、bicameral mind (二分心)という仮説を提示している。曰く、内観を可能とする主観的な意識は言語より後に発生し、発生以前の人間の精神構造は、右脳に由来する「神の声」とそれに一方的に従う「人間(左脳)」の2つに分かれていたというものである(統合失調症患者が幻覚や幻聴にコントロールされるように)。

ギリシアの叙事詩イーリアスの頃までその二分心の形跡は見られ、登場人物があたかも自分の意思がないかのように神々の思いのままに行動するのはそのせいだという。言語や社会の発達に伴い二分心はなくなり、意識が発生したそうだ。イーリアスの成立は紀元前8世紀といわれ、竹取物語はイーリアスと現代の中間地点よりやや現代寄りである。そう考えると心理描写があっさりしているのも、まあそんなものかという気になってくる。

竹取物語には言葉遊びがたくさんあって楽しい。いまさら気づいたのだが、掛け言葉って要するに駄洒落のことなのね。高校生ぐらいの時に気がつけばよかった。

では本文から駄洒落を一つ。かぐや姫の求めで右大臣安倍氏が持参した火鼠の皮衣が、偽物だと露見したことについて、「安倍」と「敢え」を掛け「と(遂)げなきものをば『あえなし』と言ひける(p.28)」。注釈によると「かぐや姫の家に、あべはいない」という意味も掛かっているとか。

0 件のコメント:

コメントを投稿