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2013年8月21日水曜日

読書ノート:「痴呆老人」は何を見ているか 大井玄著

新潮新書。数年前に新刊で購入。ある程度必要に迫られて、この度再読。痴呆であろうがなかろうが、世界と自己を取り結ぶやりかたに大きな差はないという。

人間は実際に知覚したことを基に現実を構成しているのではなく、知覚したことを過去の経験に基づいて組み立てている。つまり「見たいものを見る」。

痴呆の人も、病棟で自分の構成した虚構の現実を生きている。研究者である阿保順子氏の著書から、ある女性患者の生活の様子を書き出している。彼女にとって病棟はかつて暮らした町で、デイルームの置き畳は「公民館」であり消火栓の側は「駅前」だ。関係のない男性入居者を「夫」とみなし、同様にこの男性を夫と誤認する別の女性入居者のことを男性の「妾」と考えている。この三人の世界観は一致しないが、女性患者は深入りせず、一方通行な関係で事足れりとしている。深入りすれば「この虚構の人間関係を壊してしまう」ことを心のどこかで理解しているかのように見えるそうだ。

研究者の久保田美法氏から引いた言葉も印象深い。
「自分が生きてきた歴史やなじみ深い人びと、ときにはご自分の名前さえ忘れて行かれる痴呆では、その言葉も、物語のような筋は失われ、断片となっていく。それはちょうど、人が生を受け、名前を与えられ、言葉を覚え、『他ならぬこの私』の人生をつくっていくのとは反対の方向にあると言えるだろう。ひとつのまとまりのあった形が解体され散らばっていく方向に、痴呆の方の言葉はある。それは文字通り、ゆっくりと『土に還っていく』自然な過程の一つとも言えるのではないだろうか」P.129

米国の介護事情にも触れている。事情を知らないので、良し悪しを判断できないが、同国では入所者の多くが短期間で亡くなるようだ。ニューヨーク州立老人介護施設を調査した2004年の論文によると、重度痴呆老人の入所時の判定で余命半年以内とされた人は1%だったが、実際は71%が半年以内に亡くなったという。いったん「重度痴呆」=「終末期患者」と判定されると、患者が苦痛を訴えない限り、医療的にはほぼ放置に近い状態であることが窺われるそうだ。

米国では「自立性尊重」という倫理意識が強いため、人が自立性を失うと、無理に生かすという方向に進みづらいのではないかと著者は分析している。

9.11のテロの直後、ブッシュ大統領が全世界に対し、米国の味方につくのかつかないのか態度表明を迫ったことを「パニックに陥った時の認知症の老人の反応と全く同一です」と述べている。このような見方は面白いが、本当にそう言ってよいのか、少し慎重な論考があってもよい気がした。

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